図書館事務部長からのメッセージ


読書の力ということ

 

 ……現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、ないがしろにされたままだ。相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。(『塩一トンの読書』p.12

 

 いきなり少し長い引用になりましたが、あなたの先輩、須賀敦子の読書の愉しみについての文章です。同じ本で、古典と言われる作品には、「読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける。」とも書いています。

 続いて、もうひとつ引用です。小説家、古井由吉は最近出た本で、こんなことを話しています。

 

 ……読書は、自分を見つけることもできれば、自分を離れることもできるという、不思議な効用があります。(略)/自分の中にないはずの何かに触れ、共鳴することも、本を読む功徳でしょう。自分の中に何があるかわからないですから、気づくのにはいいかもしれません。映像だとどんどん過ぎてゆきますが、本は逃げません。読んではめくり、読んではめくり、うつらうつらと読んでいるものが、意外に頭に入っていきます。夢うつつで何度も同じ行をたどるような読書が、しみ込むように入っているんです。(『人生の色気』p.139

 

 大学生でいる間に、面白い本、あなたが身体の深いところで共鳴できる本との出会いを経験してください。この人の発信する文章を断簡零墨にいたるまで、あなたがすべて読んでみたいと思う著者をみつけだしてください。古典作品の作者でももちろんいいのですが、できることなら、大学生のあなたが、その人の書いた本、雑誌や新聞の記事、インタビューの発言などを、今、現在進行形で追っていけるような人物がいいですね。その人が書いたものをとおして、あなたの世界が大きく広がります。そして、その人と「同じ時代の空気を呼吸することのできる自分を心の底から幸福だと思う」(松浦寿輝『クロニクル』)という至福のときを、味わってください。

 ちなみに、私がその文章を常に追っているひとが三人います。思想家の鶴見俊輔、精神科医の中井久夫、小説家の池澤夏樹です。かれらの仕事に共通するキーワードは、decency(品格)とtolerance(寛容)でしょうか。松浦寿輝の上記の文章は中井久夫について書かれたものです。松浦寿輝は同じ本で

 

 ……わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(略)/日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。山田詠美、町田康と併せて、ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。(『クロニクル』p.56

 

と書いていますが、このことは、そのままかれら三人の文業にあてはまります。

「誰の影響を受けたのか、(略)心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない」(堀江敏幸『河岸忘日抄』)という場合もあるかもしれませんが、あえて、あなたに、私は書きました。

 

 さて、鶴見俊輔の本に、『戦時期日本の精神史』があります。1970年代末にカナダ・マッギル大学で行われた授業の講義ノートがもとになった本です。加藤典洋はこの授業を贋学生として聴講し、「この授業に出て、わたしは大学の授業というものが人を覚醒しうるものであることをはじめて知った。二年後、カナダから帰国してから、物書きの真似事をはじめたが、現在までにいたるほとんどすべての仕事が、この授業をいまなお、水源にしている」(『語りの背景』)と書いています。

 古いはなしになりますが、大学時代に、授業によって覚醒された経験を同じようにもつことに恵まれた者として、私はあなたに、次のように言います。

 大学の値うちは、それまでの自分の世界をふりかえり、目覚める、瞠目する、ものを考えるきっかけとなる授業と本に出会える可能性が、そこにあることです。それを見つけられるのは、あなた自身です。

 

 図書館は、あなたが読みたい本を、いつでも用意しています。

図書館事務部長 吉田久治 2010年4月